路面電車で移動 爆心地公園
2018年 青春18きっぷの旅 春 第3弾 その20
歩いて出島停留所へと歩いていると・・・
13:48 路面電車が来たので乗る。
移動区間 ↑クリックで拡大
この後、爆心地公園~平和公園へ行きたかったのですが、どこで降りたら良いのかよくわかってなかったので・・・とりあえず・・・
13:55 浜口町で降りる
(左)通りを歩いていると・・・(右)畳屋さんの軒先で店番をしていたおりこうわんわん
小さな川があって・・・
花壇の花を眺めながら歩いていると・・・公園の入り口が・・・
14:02 爆心地公園 敷地の中へ入ると団体観光客が沢山いて、特に欧米人の観光客が目立った。皆さんガイドの説明を真剣に聞いているのが印象的でした。いつも被害者面したいから特定アジアの人たちはここには来ないのかな?
母子像 長崎市出身の彫刻家 富永直樹氏の作品だそうです。
原爆落下中心碑
浦上天主堂遺壁
爆心地から北東へ約500mの小高い丘にあった浦上天主堂は、1895年(明治28年)から建築に着手し、信徒たちの献金と労働奉仕により、1914年(大正3年)に献堂式を挙げるにいたった。そして、1925年(大正14年)に正面の双塔が完成し、大小の鐘が吊された。
東洋一の壮大さを誇った天主堂であったが、1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく裂により破壊され、わずかにまわりの壁を残すのみとなった。この側壁は聖堂の南側の一部で、1958年(昭和33年)に新しい天主堂建設のためこの地に移築されたものであり、壁上の石像はザベリオと使徒である。しかし、風雨にさらされて傷みが進んだため、安全性を考慮して現在の形状のまま内部及び表面の補強を行った。(長崎市 平和 原爆HPより)
ザベリオと使徒の像
破壊の凄まじさが伝わります
この浦上天主堂遺壁は移設されたもので、かつて浦上天主堂自体を広島の広島県産業奨励館(原爆ドーム)のように、モニュメントとして残そうという話もあったそうですが、教会が建て替え、撤去を決断。この壁だけが爆心地公園に移された・・・と言う事をドキュメンタリーで見ました。
供えられた千羽鶴
平和公園方面へ歩くと・・・
大きな石灯篭
聖徳寺灯篭
爆心地から南南東へ約1,500mの距離にある天王山法輪院聖徳寺は1626年(寛永3年)に創建され、この一対の灯籠は信仰深い檀信徒から献納された。
1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく裂により、総けやき造りの壮大な本堂は崩壊し、境内の石塔や墓石も爆風によりほとんどが倒れたが、この一対の灯籠は倒れず残った。
その後、この灯籠は原爆の惨状を伝えるものとして聖徳寺より寄贈を受け、1949年(昭和24年)2月にこの場所へ移設された。(長崎市 平和 原爆HPより)
思わず空を見上げる・・・
この真上で原子爆弾が炸裂したのだ・・・
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